全てはひと続きになっている

奈良から軽井沢に来ました。

軽井沢に来て、半年。

ここで、報告してから半年が経ちました。

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今もなお、2020年開校予定の軽井沢風越学園の設立準備にちょっぴり関わりながら、メインは連携先の公立小学校で、学級担任として働く毎日です。

 

自分の足で立っていなかった4月。落ちるところまで落ちて、自分の内側に潜り続けた最初の3ヶ月でした。自分と向き合うことには、痛みを伴う。葛藤を葛藤のままで持ち続けるということは楽なことではない。でも、僕にとって本当に大事な時間なんだという確信はあります。

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1学期のことはもうすでに記憶にないくらい遠い過去の話になっていて、そこから、随分と遠くまで歩いてきたなあという感じです。とはいえ、全てはひと続きになっているので、そういうことも感じながら、今、ここに立っているわけです。

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2学期が始まってからは、1ヶ月が経ちましたが、諸事情で途中から体育主任になり、運動会を任されるなど、相変わらず、ギリギリの中を何とか走り続けています。もう体育主任はいいかな。運動会という学校行事から、改めて学校という場所について見直す時間でした。

 

昨年度までの普通の公立小学校の先生をしていた頃とは少し違うのが、頻繁に教室にはお客さんが訪問されるということ。連携の関係で、校内の先生や町や県の教育委員会から。学校づくりに関わって風越学園から。それ以外にも、僕が個人的にお誘いさせてもらったり、先日は、某大手教科書会社からも。といった感じで、毎週誰かが来られます。「見られる」とか「求められる」といったことの中で、自分の心の中の動きとか、外に開くことの意味とか、誰かと共につくっていくことについてとか、そういった中での子どもたちの学びとか、いろいろと考えます。難しいことだらけです。

 

また、昨年度までのように、フルスイングしてないなあとか思うこともあって、「見られる」とか「求められる」ということの中で、自分を縛り付けているものはまだまだあるなあといった感じです。でも、その縛り付けというか、いろんな制約の中で、磨かれていくもの、生まれていくものもあるんだろうなあと思っていて、まあ、あと半年も、引き続き向き合っていくんだろうなあと思います。頑張ります。

 

あと、軽井沢に来てから、ほとんど毎日、振り返りを記録しています。どんなに苦しい時でも、忙しい時でも、振り返りと学級通信は毎日続けてきました。とにかく「書くこと」を通して、多くのことを学んできた自負はあります。たぶん、これをやってきたから、この半年、ここまで来れたのかもしれないなあとも思います。一つ一つを言葉にすることで、少しずつでも進んでいくことの手応えを感じながら、また次へ向かっていく。「書くこと」の価値を実感を伴って感じてきた半年でもありました。

 

 

ということで、半年が経って、現状報告でした。

 

相変わらず友達はいないので、週末はひとりぼっち。

これからどう過ごすか考えます。(笑)

9.3(tue.)メモ。

飽和状態の中でひたすら進んでいくんだけど、これくぐり抜けたら一皮も二皮もむけられそうな気はしてるし、苦しいけど、ぼくはこういうのが好きなんだと思う。

 

いかにして、バランスを保っていくか。いかにして、大事なことを見極めるか。いかにして、足し算だけじゃなく引き算やかけ算や割り算を駆使するか。いかにして、自分の心の動きをコントロールするか。いかにして、協同性の中で自分を最大化するか。飽和状態のギリギリの中でしか学べないことがある。

 

余裕こいて、それらしい言葉を並べて、いいように拡大解釈して、気持ちよくなってるようじゃ、それは終わってるし死んでる。

夏が終わり、始まった

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2学期が始まって1週間が経った。ぼく自身の夏休みは、さらに1週間前には終わって走り出している。

 

今週はさっそく大きな仕事があった。どうだったのかはよくわからん。

 

もともとスタートダッシュが苦手で、走りながら修正していくタイプなんだけど、この1週間はとにかく心に余裕がなく。

 

やらないといけないことの割合が高くなってくると、どうしても気持ちがあがってこない。そりゃそうだ。そこは何とかしていく。

 

湧き出る感情の落とし所が見つからず、自分の中で迷子になっているような感じが常にある。

 

まあ、そういうことも走りながら修正していくんだけどね。

 

なんか、あらゆることはほとんどどーでもよくて、何よりもっとシンプルに立ちたいと思うわけです。

学校とゆるやかに伴走するといこと

今夜も晋さんとのオンライン支援が終わりました。

 

昨日はこちらを読みました。

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学校とゆるやかに伴走するということ

学校とゆるやかに伴走するということ

 

 

もともと晋さんとは、研修会で数回お会いした程度の関係でした。それも一方的にお話を聞く、という。

まだ教員2年目とかそこらへんのとき、『学び合い』とか「信頼ベース」とかをあれこれ実践し始めていたころ、何か引っかかったのか、晋さんのこちらの本(この本にもある3冊)も何度も繰り返し読んでいました。

「対話」がクラスにあふれる!  国語授業・言語活動アイデア42

「対話」がクラスにあふれる! 国語授業・言語活動アイデア42

 
新版 学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ

新版 学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ

 

 

もちろん、前作のこちらも読んでいました。振り返ると、このあたりから、何となく「この実践おもしろいなあ」から、「この人の考え方、生き方いいなあ」と思うようになっていったんだと思います。

学校でしなやかに生きるということ

学校でしなやかに生きるということ

 

 

ぼくが教員3年目の年、本の中にも登場する、井上太智さんから晋さんのお話を聞いていました。太智さんは「定点観測」と読んでいましたが、その「定点観測」にぼくはすごく興味を持ちました。(つまりは「伴走」してもらうことですね。)

 

カリスマ先生から学ぶサークルや単発のセミナー、ワークショップに違和感を持ち、それらを全て捨てて「Learnig Creater’Lab」という中長期的なプログラムなどに参加し始めていたぼくは、話を聞きながら、「継続的に、しかも、教室の中で実践しながら学べるとかサイコーやん!」とシンプルに思ったわけです。

 

そしてその年度末、太智さんに晋さんがFacebookに「伴走」について募集する投稿をしているのをに教えてもらって、管理職に相談する前に、直感でDMを送ってしまったことから、晋さんに1年間伴走してもらうことになりました。

 

その1年間について、ぼくは過去の記事でこう振り返っています。

石川晋さんとの一年 - 全てはひと続きになっている

ぼくは、何より、晋さんと教室を見ながらあーだこーだおしゃべりすること、放課後に頭抱えて一緒に悩むこと、そんな時間がとても楽しかった。

なんせ、先行実践が無いようなことにチャレンジをするがゆえに、答えをつくっていかないといけない、価値を見出していかないといけない。

まだまだ未熟なぼくは、急に不安になったり、ブレてしまったりすることもある。そんな中で、伴走者の方の存在は大きい。

しかも、継続的に入ってもらっていることの価値が大きい。それは何かというと、「ストーリーを共有している」ことと、「同じものを見ている」ことにあると思う。

その上で、さらに晋さんはスペシャリスト。今のぼくに何が必要なのか、その視点を丁寧に渡してくれます。

晋さんの伴走を体感できたことは、本当に貴重だったと思います。きっと、この原体験はこれからの何かにつながっていくんだろうな。

ぼくの中で、魅力的なロールモデルです。

 

昨日、「学校とゆるやかに伴走するということ」を読みながら、なんだか晋さんと会話しているような感じがしていました。

 

伴走してもらっていた1年のその前後のこと、晋さんの思いに触れながらも、文中に何度も出てくる「地続き」という言葉がぼくの心に引っかかってきます。どうやら、この言葉にこそ、ぼくが「石川晋」という人に何となく惹かれていった理由があるみたいです。

 

「地続き」になっていることを知っているからこそ、あらゆるところへ想像力を働かせて、「これまで」のことから「これから」のことまでを見渡したうえで、今、必要なことを相手が受け取れるサイズで手渡すということができる。晋さんは、そういったことのプロフェッショナルで、ぼくは一生かけてもその境地にたどり着ける気がしません。

 

それと、もっとも引っかかったのはここ。

ぼくは手づくりの食事で健康を維持というような単純な健康管理の話をしたいわけではない。何かをつくるという手応えを、自分の手元に引き寄せておけない生活のなかでは、実践は荒れていくといくことを言いたいのである。

そして、ここ。

生きる実感を手放さない。食事でも趣味でも友人や恋人との強いつながりでもいい、生活の質感をずっしりと持ち、手放さないことは、実践を豊かにしていくために大切だ。なんだか少し親の小言めいているが…。

 

どちらも要は、「地続き」になっているということだなんだろうけど、これめっちゃ大事だなあと思うんですよね。例えば、授業のことばっかりやっていても仕方ないような状況もあるということ。生き方としての自分を見つめる客観性もちゃんと持っていたいなあと思います。

 

ぼくのブログのタイトル「全てはひとつながりになっている」も、つまりは「地続き」と同義で、あと、今年度も引き続きオンライン支援を受けているのもそういうことです。

 

オンライン支援と言っても、何か具体的に授業方法について相談しているとかそういうのではなく、何か事前に準備するわけでもなく、ただただ、何となくそのとき考えていることをお互いにべらべらしゃべって終わりって感じの1時間ちょっと。でも、この「何となくそのとき考えていることをしゃべる」っていうのが大事なのかもなあとか、最近は考えています。

 

あと、継続的に晋さんと関わることで、「地続き」になっていることをより感じながら日々を考えていきたいんだろうなあとか。

 

この本を読んだことがきっかけで、また、自分の身の回りのことをぐるっと見渡してひとつひとつ丁寧に考え直していきたいなあと思うのでした。

 

 

…あれ。書評っぽいの書こうと思ったのですが、いつの間にか書評でも何でもない記事になってしまいました…。明日から2学期が始まるから早めに寝たかったのに、こんな時間になってしまいました…。

 

とにかく、すばらしい1冊でした(笑)。

「目的」であふれる中で

 

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「目的」であふれる人生は何て豊かなんだろうって思う。

 

 

奈良にいたときは、「目的」を自ら見出していくことで必死だった。ただただ、消費していく毎日はいやだったから。

 

もちろん、学校の先生という意味のある仕事につけたことは誇りに思う。でも、それ自体は「目的」になり得ないことは、教員採用試験に向けて勉強していたころには、自問自答の中で薄々気づきはじめていた。

 

だから、先生になってからの毎日に少しでも意味を持たせたくて、あちこち飛び回って動き回っていたんだと、今になってぼくの原動力の一つはそういうことだったんだと気づく。

 

動けば動くほど、「目的」がたくさん生まれてきた。

 

今、軽井沢で風越と公立小学校の先生として働く中で、そこには圧倒的な「目的」がある。しかも、一つではない。それに、その一つ一つは、これまでのそれとはケタ外れではある。

 

はじめの4ヶ月は、その「目的」にのみこまれるような感覚さえあった。どこからともなく降ってくる「目的」に。(今はちがう)

 

状況はみるみる変化していき、「目的」もその輪郭が徐々にはっきりと見えるようになってきた。それに向かって進めば進むほど、多かれ少なかれまた別の「目的」が増えてくる。ああ、そういうことなんだろうな。

 

 

「目的」であふれる人生は何て豊かなんだろうと思う。

 

でも、ぼくははじめの4ヶ月を経験して、「目的」のない人生も豊かだなあと感じるようになった。

 

意図的に無目的な時間を作らないと、「目的」におぼれてしまいそうになる。だから、そんな時間をつくるようにもなった。

 

バランスが大事だということは自明ではあるけど、それと誰かが言ってた、両極は一致するということは何かつながってんのかなあとか。

 

 

「目的」であふれる中で、ぼくは「ぼく」を見失わないように進んでいきたいなあと思うのでした。

 

 

ずいぶんと抽象的で読み手に優しくない文章になってしまった。まあ、それはそれでまた「目的」があるようなないような。

軽井沢でのはじめの4ヶ月

今日、軽井沢に戻りました。やっぱりこっちは涼しい。風がとにかく爽やかなんです。

 

お盆は実家の奈良に帰っていました。

関西圏にいる友人とたくさん会って、ひたすらだらだらと過ごす日々でした。帰る場所があるからこそ、今がんばれるだということが再確認できて、会ってくれたみんなには本当に感謝しかないです。これだけゆっくり過ごしたのは初めてかもしれないというくらいゆっくりしました。(だいたい家にはいてなかったものの)

 

というのも、軽井沢でのはじめの4ヶ月。とにかく疲れたんです。いつもなら、毎年持て余す力を発散するかのごとく、夏休みはあちこち飛び回る毎日でした。でも、今年はとにかく疲れたので休みたかった。それくらい、この4ヶ月は持てる力を全て出し切った4ヶ月だったんです。

 

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本当にありがたいなあと思います。おそらく、今、ぼくが経験していることは全国的にも稀なケース。経験したくてもできないことだったりします。だからこそ、この1年は(もちろんその後もだけど)、自分の持ってるものを全て出し切りたいと思うわけです。軽井沢風越学園の学校づくりも、公立小学校の教員としてのチャレンジも。

 

これまでほぼ実家暮らし、地元奈良の学校の先生をしていたところから一転、ガラッと環境が変化したことによる気疲れもあります。でも、それだけではない、何とも言葉にしづらい苦しさと向き合う日々でした。

 

4月は本当に苦しかった。大きな挫折を味わい、自問自答する中で、恥ずかしながら、外的な要因に引っ張られながらここにいたこと、自分の足でちゃんと立っていなかったことに気づきました。つまり、そこに「ぼく」はいなかったわけです。

 

どうしてここに立っているのか、ここにいる目的を一から考え直して、一つ一つ、ちゃんと「ぼく」からはじめることを徹底しました。

 

毎日のふり返りを読んでフィードバックをくださったあすこまさんの存在はとても大きく、それ以外にもいろんな方々に助けてもらいながらも、徐々にぼくは「ぼく」を取り戻していきました。

 

どの道を選んでも「葛藤」を抱えることになる。それでいいんだ、そういうものだという前提をちゃんと持った上で、それでもやっぱり自分でいずれかの道を選んで進んでいくこと。その中で、起こるあらゆることから学んでいくことをいかに楽しめるか。楽しむためには、やっぱりその道はちゃんと「ぼく」が選んでるかどうかが大事。自分の心の機微に敏感に、素直になれるかどうかが大事なんだと。

 

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教室の中では、ふり返ってみると、ぼくは、「みんなの自由を取り戻す」ということをしてきたんだと思います。

 

ぼくと出会うまで、本当にたくさんの縛りの中で過ごしてきたんだなあとところどころで感じました。それはもしかしたら、それまでは必要なことだったのかもしれないけど、やっぱりぼくは「あなたは自由な存在なんだよ」ということを伝えたかった。

 

自由な存在であることを認められる中で学ぶことの価値は、当然のことながら子どもたちの姿に現れてきました。あらゆることをちゃんと「自分」からはじめられるようになってはじめて、やっとスタートラインに立ったという感じ。これは、ぼくのさっきの経験と重ねて考えています。

 

もちろん、自由である分、エラーがたくさん起こります。でも、エラーが起こってからが本当の学びのスタートではないかなと。ぼく自身、いろいろ揺れるところもあるけど、それはぼくがぼく自身と向き合い直す機会にもなりました。

 

「テストってなんのためにやるんだっけ?」みたいに、一つ一つみんなで問い直して、確かめながら進んでいく。次の4ヶ月もそうやって進んでいきたいです。

 

 

 

さらっと書くつもりがだらだら書いちゃいました。特にまとめるでもなく、今日はここまで。

2学期は、ブログの方もちょくちょく更新していきたいなあと思っています。

7.21(sun.)メモ。

読書家や作家、算数でも、ベランダや廊下、床で学ぶ子が増えてきた。はじめは不安そうにぼくに確認しにきた子たちも、今は何もいってこない。もちろん、教室で学ぶ子もいる。ぼくは今、これまで学校の中で教え込まれてきて、子どもたちの中にある「ねばならない」をひとつひとつ崩していくことを教室の中でやっているのだろう。生きるということは本来もっと自由なものだよと。学ぶことはもっと自由なことだよと。自由になってはじめて起こることもたくさんある。もちろん失敗もある。そこで「そもそも」について問い直して、みんなでつくっていくこと。今週の「テスト」についての議論なんてのはまさしくそう。「夏休みの宿題の必要性」についてあーだこーだいっている声があがってくるのもそういう感じなのだろう。「ねばならない」を取っ払って、自由になったところからが本来の学びがスタートする。そんなことを感じた1週間だった。

 

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今日も、カリキュラムづくりのために教室に外から人が入ってくる。ぼくは今、学校現場と学校づくりの狭間に経っているということを思い出す。これは、ぼくにしか経験できないことで、誰にも共有し得ないこと。だからこそ、自分の中で何が起こっているのかということが一番の関心ごとだったりする。

 

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もうさー、みんながんばってるし、みんな優勝でいいじゃん。はい、みんな優勝。ってことですよ。今日のまとめ。

 

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感情がぐわーっと動き出したときがチャンス。「書く」チャンス。

 

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できない、やったことがない、わからない、からこそ見える世界もあるってことは忘れないでいたい。できること、やったことがある、わかっているからこそ見えなくなった世界もあるんだから。

 

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あなたは、今、あなたが見えてる世界の中で大事なものを見つけられたらそれでいいんだってこと。

 

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生きる意味とか、幸せの定義とか、問い出す時期ってあると思うけど、そういう問いには、答えを出すことよりも、問い続けること、問いを持ち続けることにこそ価値があるんだと。答えを持っていることよりも、問いを持っていることの方がぼくは大事だなあと思うようになった。そういう人が好き。

 

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ただ、「問うために問う」のはなんかちがう。

 

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関西に生まれて、小さい頃からお笑いを見て育ったものとしては、この土日はどうしても例の話題に引っ張られてしまうー。

 

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「君の名は」でさえ観てないぼくですが衝動に駆られて。

 

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