全てはひと続きになっている

奈良から軽井沢に来ました。

7.7(sun.)メモ。

「何もしないことが、最高の何かにつながる」

 

進むというとは、今いる場所から離れるということ。何かに近づくと同時に、何かから離れるということ。

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初任のころから数年間はとにかく動きまくってきたはずが、今はもうその勢いはない。周りから見れば動いているように見えるよと言われるけど、自分的には全然動いてない。思わず動きたくなるような心ひかれる情報が入ってこなくなった。これについてはいろんな解釈ができる。

 

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外部から大人を教室に入れるということについて。

 

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何かがわかることよりも、わからなさがわかることの方が、とっても大切なんだと思います。これ、なかなか伝わりづらいけど。

 

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人から問いを借りて自分で問うてる気になること。人から言葉を借りて理解してる気になること。いや、それ全部そんな気になってるだけでしかない。安易にスッキリしないこと。わからなさと向き合うこと。それができるかどうかが分かれ目。

 

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これ勧められて読みました。これまで大事にしてきたこと、今まさに大事にしたいと思っていることがたくさん書かれてある。定期的に読み返したい一冊。確信。必読です。これを前提にこれからの話がしたい。

軽井沢に来て3ヶ月。

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ちょうど軽井沢に来て3ヶ月が過ぎようとしている。

 

こっちに来て、いろんなことが変わった。変わるということは、当たり前だけど楽しいことばかりではない。むしろ、苦しいことの方が大きいんじゃないかな。葛藤もたくさん生まれる。変わろうとしない人の気持ちも少しはわかる。でも、変わったからこそ、これまで見えなかったものも見えるようになった。今まで知らなかった自分にもたくさん出会った。まだ3ヶ月しか経ってないことが本当にびっくりだけど、本当に来てよかったと思う。学校づくりがどうとかよりも、自分自身が変わっていくことを感じられる今が本当におもしろくて幸せだなあと思う。改めて、こういう機会をいただいたことへの感謝の気持ちが止まらない。

 

4月。どうして風越に来たんだろうか、ということを問い直すくらい、心は病んでいた。そもそも、ぼくは、年末に風越に来ることなって、正直浮かれていた。そこに自分はいなかった。地に足ついてないままに軽井沢に来て、真っ暗闇の中を手探りで歩くんだけど、そもそも、そこに自分はいなかった。

 

ある出来事があって、落ちるところまでとことん落ちて、悪夢を見るまで落ちきったときに、はじめてちゃんと自分と向き合うことをした。これまで、外的な要因に引っ張られてここに立っていた自分に気づき、自分の足でちゃんと立つために、一から積み直していくことにした。毎日記録し続けているふり返りの質も、このあたりから変わっているんじゃないかと思う。

 

こっちに来てから、1人の時間が増えた。目的なしに会う人がいない生活は、常にどこかぽっかり穴が空いたままのような感じ。埋めたくなるんだけど、埋まることはない。でも、その空いた穴には、いろんなものが出たり入ったりしていく。いいものも悪いものも。つまり、1人の時間が増えたことによって、自分の感覚にすごく敏感になった。自分自身と向き合う時間が長くなったからこそ、自覚することが増えていった。で、それが、教師としてのあり方にも影響をおよぼしている。今は、教室にいる自分が今までより一層自然体になった気がする。そして、もちろん、子どもたち自身の感覚も大事にしたいと実感を伴ってこれまで以上に強く思うようになった。

 

「授業づくり」とか、「学校づくり」についてよりも、ここまでの3ヶ月は、ぼく自身が「自分づくり」についてひたすら考え抜く時間になった。でも、これはすごく大切なことなんだと思う。今はまだうまく言葉にできないけど、本当に大切なことってそんなもんなんだとも思う。時間が経ってから、あのときのあれはああだったって言えるようになったらそれでいいや。

 

とはいえ、まだ3ヶ月。まだまだこれから。疲れは溜まって取れないけど、心はめちゃくちゃ元気。とりあえずこの一年、やれることを精一杯やりたい。それだけ。

6.23(sun.)メモ。

だれかを非難する言葉は、まず、そのまま自分へ向けてみること。

 

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一年生らしさは、一年生らしさを求める周りの大人によってつくられているんですよね。同じく、小学校の低学年らしさ、高学年らしさ、みたいなのもそう。大人の要求に対して子どもたちが応えるような形になっているのが、すごく学校っぽい感じがする。そういうの見てると何だか胸がざわつく。

6.17(mon.)メモ。

なんだろう。言葉にできないことと出会うと、何とも言えない気持ちになる。

 

言葉にできそうでできないことが頭の中で浮かんでは消えるを繰り返す。

 

しかし、こうやって言葉にしていることは氷山の一角で、つまるところ、言葉にできないこともちゃんとそこにはあって、それが自分の言葉を支えてるってこと。

 

あ、そうなると「浮かんでは消える」ではなく、「浮かんでは沈む」なのかもしれない。

 

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もう、どんな実践をしているかってのは本当にどうでもよくて、さらに言えば、どんな実践をしてるかだけにフォーカスすることに全く興味はなくて、その人の生き方とかあり方とかそういうところまでくっついてる話がしたいんだよな。

6.5(wed.)メモ。

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平日にまでこもっちゃうくらい近所の図書館がマイフェイバリットプレイスになりつつある。

 

場所って大事。場所を選ぶって大事。場所が自分にどう作用しているかを自覚するって大事。

 

作家の時間、読書家の時間のそれがこういうことなのかもしれない。

 

 

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ぼくは、小学校も教科担任制の方がいいと思っている派。子どもたちが学びの深さを知って、その子自身の強みを生かし、専門性を身につけ、プロフェッショナリズムを持ってほしいと願うのであれば、その学びを支援する教師自身がそれを体現している必要性があると思うから。ぼくにはそれが欠けている。

 

あ、でも、前提として緩やかな協同の文化があること。信頼し合える関係性が土台にあることは大大大前提。そうすると、おのずと教師同士での学び合いがぼこぼこ起こり、相乗効果でお互いの能力が最大化されて続けていく。これ、子どもたち同士であってもそのまま言えるんじゃないかな。

 

今まさに体感していることに基づいて、そんなことを考えているところー。

 

 

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「言葉」は、決してそれ自体が独立してそこにあるのではく、誰かしらかの「人」から生み出されたものであるということ。扱いには気をつけないとね。

 

 

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ぼくは、誰かにとっての優れた教育者である前に、まずは、ぼく自身にとっての優れた教育者でありたい。

 

5.27(mon.)メモ。

なーんか、人に伝わりやすい言葉にしようとしたときに一気に陳腐化しちゃうんよなー。

 

だから、ちゃんと自分の言葉で言語化する機会はつくった方がいい。それが自分をつくるってことになるはず。

 

あと、人から借りた言葉を一度解体するみたいなことも重要。言葉を言葉としてだけ飲み込むのではなく、一度壊して再び紡ぎ直すこと。

 

(日々のふり返りをオープンにして)自己開示することで、コミュニケーションが生まれ、仲間が増え、自分の学びが広がって深まっていくだけではなく、やれることの可能性も最大化されていくということを今まさに体感している。だけど、この価値を人に伝えるとなると今はまだ難しい…