全てはひと続きになっている

奈良から軽井沢に来ました。

終わりもなく、はじまりもなく

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コロナショックの陰で、令和元年度が終わろうとしている。本当に終わるんだな。

せめてもの思いで、今の心境を、自分のためにブログに書き残しておこうと思う。

 

いろんな感情と向き合った1年だった。悩みに悩み抜いた。少し疲れた。

軽井沢の凍てつく寒さは、温度も何もかも奪っていくんだなあということも知った。

振り返ると、ぼくはぼくのことで精一杯だったんだろうなあと思う。

結果として周りの人たちを不幸にしてしまっていないだろうかという心配もある。

4月の自分とは随分と距離を感じるほどの自己変容もあった。

 

そんな1年を締める3月は、感情をどこかに置き去りにしてしまったような1ヶ月だった。

ウイルスの猛威でさえも、心は波風を立てはしない。無心で情報だけをキャッチする。

本来別れを惜しむ3月であったはずなのに、そういう感情もほとんど感じることはなかった。

 

1ヶ月前、突如、全国の学校は休校を余儀なくされた。

卒業式や修了式は簡略化され、この1年の苦労や成果を噛み締める余裕もなく、強制終了。

そんな中で、ただ心静かに淡々と流れに身を委ねるしかできなかった。

抗うこともできずここでもやっぱり無力さを感じながら、ことを進めていくしかない。

 

たった1年で去ってしまう職場の送別会の日でさえも胃腸炎で出席できず、復活した頃には、お世話になった同僚がひとり、またひとりと職員室から去っていった。

伝えたい気持ちも言葉もたくさんあったはずなのに、心の中で準備していたのに、一切伝えられなかった。

 

休校後、本格的な次年度の仕事はもうすでに始まっていて、今まさに開校に向けて着々と準備を進めている。この3月は年度末の業務と同時並行で準備を進めてきた。

状況は日々変わりつつあるが、いずれにせよはじまりの日は訪れるので、それに向けてできる限りの準備をしている。

 

そうやっていつの間にやら3月の終わりを迎えている。

 

いつの間にやら静かにフェードアウト、フェードインしていったこの3月をぼくはどう思えばいいのだろう。

 

これまで、卒業式や送別会のような節目たちに守られてきたんだろうなあとか、

結局のところこの1年が報われる瞬間を心のどこかで求めているんだろうなあとか、

この数週間はそんなことばかり考えている。

 

終わりもなく、はじまりもなく、ただ連続した日々の中で静かに次に向かっていくことこそが自然なのかもしれないが、ぼくは、この1年の落とし所を今もまだ探している。

 

置き去りにしてしまった感情を拾い集めながら、思考は止まることなく四六時中ぐるぐるとあちこちを駆け巡っている。未だゴールにはたどり着いていないものの、その走行距離は随分と長い。

 

とはいえ、明後日には4月。はじまればここに書いたこともさーっと流れていくんだろう。

次こそが本番だ。だからそれでいいんだ。

 

この記事をもって、このブログも閉鎖しようと思う。

そういうやり方で、とりあえずの節目をつくってみる。

今はそうしたい気分なんだ。

 

 

ここまで読み返してみると、何だか暗ーい感じになってしまったなあ(笑)

思いつくままに書きなぐってみるとこうなった。

でも、これがはじめに出てくるぼくの素直な思いなんだろうなあと思う。

 

もちろん、この1年を振り返って、明るいこともたくさんあった。

だけど、そういうことをキラキラしたものとして書くことはもうぼくにはできない。

複雑なものを紐解いたり、葛藤と向き合ったりするために文章を書くことが増えた。

ぼくにとっての発信の意味も、この1年で随分と変わったんだろう。

はじめの方の記事を読み返してみると、まるで別人のよう…

でも、あれこれ試行錯誤の跡が見えておもしろい。

 

 

というわけで、これまで読んでくださった読者の皆さん、ありがとうございました。

また別のプラットフォームでブログを再開するかもしれないし、しないかもしれないですが、またどこかでお会いしましょう。ではでは。