全てはひと続きになっている

奈良から軽井沢に来ました。

「目的」であふれる中で

 

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「目的」であふれる人生は何て豊かなんだろうって思う。

 

 

奈良にいたときは、「目的」を自ら見出していくことで必死だった。ただただ、消費していく毎日はいやだったから。

 

もちろん、学校の先生という意味のある仕事につけたことは誇りに思う。でも、それ自体は「目的」になり得ないことは、教員採用試験に向けて勉強していたころには、自問自答の中で薄々気づきはじめていた。

 

だから、先生になってからの毎日に少しでも意味を持たせたくて、あちこち飛び回って動き回っていたんだと、今になってぼくの原動力の一つはそういうことだったんだと気づく。

 

動けば動くほど、「目的」がたくさん生まれてきた。

 

今、軽井沢で風越と公立小学校の先生として働く中で、そこには圧倒的な「目的」がある。しかも、一つではない。それに、その一つ一つは、これまでのそれとはケタ外れではある。

 

はじめの4ヶ月は、その「目的」にのみこまれるような感覚さえあった。どこからともなく降ってくる「目的」に。(今はちがう)

 

状況はみるみる変化していき、「目的」もその輪郭が徐々にはっきりと見えるようになってきた。それに向かって進めば進むほど、多かれ少なかれまた別の「目的」が増えてくる。ああ、そういうことなんだろうな。

 

 

「目的」であふれる人生は何て豊かなんだろうと思う。

 

でも、ぼくははじめの4ヶ月を経験して、「目的」のない人生も豊かだなあと感じるようになった。

 

意図的に無目的な時間を作らないと、「目的」におぼれてしまいそうになる。だから、そんな時間をつくるようにもなった。

 

バランスが大事だということは自明ではあるけど、それと誰かが言ってた、両極は一致するということは何かつながってんのかなあとか。

 

 

「目的」であふれる中で、ぼくは「ぼく」を見失わないように進んでいきたいなあと思うのでした。

 

 

ずいぶんと抽象的で読み手に優しくない文章になってしまった。まあ、それはそれでまた「目的」があるようなないような。