「教える⇒教えられる」の関係
学校の中にある、先生と子どもの「教える⇒教えられる」の関係には、時代的にも、限界があるように思います。
「教える⇒教えられる」の関係が前提としてある限り、「教えられる側」は、構造的にも受け身にならざるを得ないし、それって全然面白くない。(もちろんそうでない子もいますが)
イヴァン・イリイチという人が、「学校化」という言葉を使っていたらしいですが、それはつまり、教育そのものを、与えてもらう「サービス」だと勘違いしたまま大人になっていく中で、自分の人生を受け身に生きていく人を生み出しまくってるということではないでしょうか。
何となく高卒大卒の資格を取れば、それなりに生きられるような雰囲気があって、それを疑おうともしない。みんながそうだから、まあ、こんなもんだろうって。
いざ、社会に出たときに、本当にやりたいことが何かもわからない。自分の意志がない。仕事が楽しくない。
まあ、それでも幸せの選択肢が少なくって、みんなが目指す方向がある程度同じ向きだった時代はそれでもよかったのかもしれませんが、今はそうじゃない。幸せの選択肢は多様で、増え続け、変わり続ける。
だから「教える⇒教えられる」の関係では限界があるんじゃないかなあと思っています。
それよりも、「ともにつくりあげる」とか「ともに歩んでいく」関係だったらどうかな。そんなフェアな関係性の中で、もちろん「教える⇒教えられる」の関係になることもありますが、それが逆転することがあったり、「教わりたい⇒教える」になったり、勝手に学び取ったりするんじゃないかなあ。
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まあ、今日の思いつき程度のうまくまとまってない不十分な考えなので、仮説として自分の中に持っておくことにします。
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今日は、6時に起きて、京都から富田林まで電化製品や家具を運びに行ってきました。
学校の中で出来ないことは、学校の外でやっちゃえ!なんてことを思ったり。
全員、何かの第一人者になっちゃえよ!なんてことを思ったり。
未来への企みラボ。
未来企み研究会。
ふらっとハウス。
まだ形にはなってないけど、頭の中であれこれ考えたところで、やってみないとわかりません。とにかく、やってみよう!
未来に、ワクワクするような企みがあった方が毎日が幸せになると信じています。
そんな(どんな?笑)場所を富田林につくりましょう!