誰の、何のための「評価」か
- 作者: キャシー・ハーシュ=パセック,ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ,今井むつみ,市川力
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2017/08/19
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ちょうど一年前くらいに、この本に出会ってから、「通知表」に違和感を持ち、そもそもの「評価」について考えるようになりました。「通知表」の「評価(成績)」が良かったら、その子は本当に幸せになれるのかなあって。
その後、3月に大阪で(「子育て成功への道」の訳者、市川力さんをお招きして)行ったワークショップでの参加者の声を聞くと、やはり「評価」のイメージは、多くの人にとっていいものではないようでした。評価されるのもイヤだし、評価するのもイヤ。イヤとまではいかなくても、楽しい!おもしろい!すごくいい!とは思えないのが現状。
きっと、これからの時期、学校の先生たちは、成績処理(「処理」という言葉がねぇ…)に追われているんだと思います。やらないといけない仕事として。そうなれば、子どもたちも「通知表が楽しみ!」「評価されるのが楽しい!」なんて思うはずがないですよね。
では、なぜ、「評価」自体にそういった負のイメージがあるのでしょうか。
一体、誰の、何のための「評価」なのか。どういう「評価」ならいいのか。
考え抜いた結論が、こちらです。
まず、「評価」は、評価の対象である「学習者の成長」のためにあるものだとします。
そうすると、次の3つの条件が必要だと考えました。
①評価基準(規準)がオープンである
想像してみてください。職員室で、校長先生が職員に向けて、「今年一年間のみなさんの評価をします。評価基準は秘密です。精一杯がんばってください。」と言いました。どう思いますか?
まず、何を目標にどうがんばったらいのかわかりませんよね。そもそも、何をもってがんばったのかもわからない。そんな「評価」は受け入れられないし、数値や言葉で示されたとしても、何が何だかわかりません。良くても、結果だけをみて一喜一憂して終わりです。
そして、「学習者の成長」のための「評価」を考えたときに、他者から受けるだけでなく、自分自身を「評価」する、「自己評価」も重要になってきます。
「自立した学び手」として、自らの学びに責任を持って成長していくためには、この「自己評価」の精度を高める必要があります。そして、その精度を高めるために、先生や他者からの「評価」が必要である、という順番です。先生からの「評価」とは別に、日常的に自ら「自己評価」できるようにするためにも、その基準はオープンであるべきだと思います。
もちろん、評価基準と授業の一貫性については言うまでもないと思います。
だから、ぼくは、「通知表」に関わる全ての「評価」の基準をオープンにし、自己評価する機会も設けています。(さらに言えば、その「自己評価」が「通知表」に大きく反映されます)
②感情的に受け入れられる(納得できる)
では、基準がオープンであればそれでいいのか、といわれればそうではありませんよね。
たとえオープンであっても、その基準が理解できなかったり、納得がいかなかったり、その基準を示す先生に対する信頼がなければ、全くもって意味がありません。さらには、その「評価」が、自分のためになっているんだ、必要なんだ、という実感がなければ、いくら、正しいことを示していても、感情的に受け入れられませんよね。
だから、前提として、信頼関係が築けていること、基準を明確にしていること、そして、本当に目の前の学習者の幸せを願っているかどうかということがとても大切です。
中でも、信頼関係は、特に重要で、そのためには、評価基準だけでなく、ひとりの人として、自分自身をオープンにする必要がありますよね。
③次の「学び」につながる
そして最後ですが、そもそも「通知表」って終業式に渡されますよね。それまでのプロセスが見えないまま、どーん!とまとめて総括的な評価として渡されます。しかも、その次の日には、長期休みに突入です。つまりは、「通知表」がゴールになってしまっているんですよね。
そうなれば、次の「学び」につながらないし、成長に結びつくことは難しいです。学期開けには忘れてしまいます。◎がいくつあったか、などにしか目がいかないのは仕方ない。これでは、「通知表」のための評価になってしまっていますよね。しかし、現状、このような教室が一般的ではないでしょうか。(ぼくもそうでした)
では、次の「学び」につながる「評価」であるためにはどうすればいいのでしょうか。
そもそも、終業式の日にまとめてどーん!の「総括的評価」が重視されていることが問題なのでは。
できれば、「学び」が起こる瞬間に、その場で「評価」できれば一番いいですよね。
というのも、「評価」はあくまでも、これまでの学びのプロセスと現在地を確認するものであるのと、それをもとに次のチャレンジは何かを考えるための一つのプロセスでしかないので、その場その場で行う「形成的評価」が重要になってくると思うんですよね。時間が経てば忘れちゃうし。実感を伴わない「評価」は、さっきの②に欠けてしまいますしね。
しかし、30人程度いる教室の中でそれは難しい。そうであれば、せめて、その1時間で、一日の中で、1週間の中で、単元の中で、学習者の「学び」がどうであったかを「評価」できればいいんじゃないかなと思います。そして、それが、次のチャレンジにつながれば。
さらに、最も重要なのが「対話」です。「評価」は、評価する人の視点でしかないので、先生の評価が必ずしも正しいとは限りません。どれだけ素晴らしい人であっても、その人から見た「評価」でしかないということは変わりありません。その人からはそう見えたということが明らかなだけで、つまるところ、真の「評価」なんてものは、誰にもわかりません。
だからこそ、それぞれから見た「評価」を共通言語として、「評価者(先生)」と「被評価者(学習者)」が「対話」通して、「被評価者(学習者)」のよりよい「学び」について考えていくことが重要だと考えています。
だからぼくは、ぼくから見た「評価」と、学習者本人の「評価」を真ん中に置いて、「対話」する時間を設けています。それによって、最終的な「通知表」の「評価」を決めます。ちなみに、あくまでも「通知表」は一面的な「評価」でしかないよ、ということは学習者である子どもたちには常々伝えています。
これが、ぼくの考える理想の「評価」のあり方です。
今年の夏に、その結論が出た上でこれを読んだのですが、とてもおもしろかったです。スーパーおススメ。
(元はと言えば、この本のしるし本が売れたので、この記事を書こうと思いました。)
もっと理想を言えば、ここに書かれているように、通知表なんてものは無くなってしまえばいいと思っている派です。しかし、現状、それはむずかしいので、できる範囲でチャレンジしていっています。
「6Cs」を活用した、多面的な評価についてもまだまだチャレンジ中です。
「評価」の探究の旅はまだまだ続く…