全てはひと続きになっている

奈良から軽井沢に来ました。

多動力

多動力 Part 1(堀江貴文×西野亮廣)

 

先月後輩とメッセージのやり取りの中で、「今、多動力読んでるわ」と送ったら「とっくんさん、読まなくても実践してると思いますよ(笑)」と返ってきた。
そうだ、ぼくはもともと多動児だったんだ、ということに気づく(笑)。
そのことを肯定的に捉えられるようになってから、余計にじっとしてられないし、あっちこっちに興味が移ってしまう(笑)。そして、そのおかげでここ数年で人生が一気に加速していってる実感がある。まだまだこれからではあるが。

 

じっと座って人の話をよく聞くを前提とした授業システムの中で、多動性のある子どもたちは苦しんできた。今もそう。ADHDなどと診断されていなくても、その傾向がある子はたくさんいる。教師にとっては、集中力のない、人の話の聞けない「困った子」となってしまう。もちろん、その子自身も「自分はダメなヤツだ」となってしまう。そして、この現状は大きくは変わらない。中身が多少変わっても、構造自体は大きく変わらない。なぜなら学校こそ、究極の「前例主義」の場であるから。チャレンジを恐れ、チャレンジを叩く。みんな一緒、今まで通りが「正義」の世界である。これは本当にヤバいことだと思っている。多動であることがネガティヴに感じられる根底にある原因は、学校教育にある。

だから、自分はどうするか、どんな教室をつくっていけばいいのか。